修士論文を書き終えて 林田勇太
大学院修士課程を終えて
「魚を釣って、調理する」フィールドワークの醍醐味
皆さんはじめまして。日下部研究室にて、2023年3月に修士課程を修了した林田勇太と申します。広島大学の教育学部を卒業し、日下部先生のゼミに入りました。以下は簡単なプロフィールです
▶︎出身:高知県
▶︎研究分野:インド、教育社会学、比較教育学
▶︎修論タイトル:『インドにおける中間層の文化的多層性と教育実践 ―中間層向けEnglish Medium Schoolと教育選択に着目してー』
▶︎卒業後進路:日本貿易振興機構(JETRO)にてスタートアップ企業の支援に携わる(2023年時点)
この記事では、私の大学院での経験を振り返り、
・どのような経緯で日下部ゼミに入ったのか?
・どのようなフィールドワークをしたのか?
・どのような流れで修士論文を書いたのか?
といった内容について書かせていただきます。これから院進を考える方、インドに興味関心がある方、教育や国際協力分野に関心がある方にとって参考になれば嬉しいです。
ところで私は今、卒業旅行で訪れたインドで、首都デリーから1400km離れたムンバイに移動する夜行列車に乗っています(2023年3月時)。座席(寝室?)は横185cm幅60cmという狭小2段シートの上段で、少し頭を上げようものなら天井にぶつかる、お世辞にも快適ではない環境です。Wi-Fiや4Gもない環境で与えられた16時間という時間はあまりにも退屈ですが、修士論文と向き合った私の2年間を振り返るにはまたとない機会です。せっかくなので、身に沁みる不自由さをテキストにぶつけて発散させてもらいます。
【日下部研究室と出会うまで】
さて、私は修士課程での研究トピックをざっくり「インドの教育」と設定しましたが、なぜインドの教育に注目する必要があるのでしょうか?その理由としては、インドにおいて教育が、2つの意味で重要な機能を持つからだと説明できます。まず経済成長を推し進める英語人材育成の土台として、そして購買力を手に入れた中間層にとっての消費対象としてです。
しかし、修論トピックの選択には研究上の背景と別に、研究者を内側から突き動かす隠れた動機(ルーツ、生い立ち、アイデンティティ、性格、経験など)も作用しているのではないでしょうか。ゼミメンバーのトピックを見ても、強く感じます。これまでは「インドみたいなヤバい国行けたら面白そうだから」くらいの理解にとどまっていましたが、私をインド中間層の教育研究に突き動かす動機はなんなのか、たっぷり与えられた夜行列車の時間を使って、自分のバックグラウンドと向き合ってみることにしました。
私の生い立ちは高知の御畳瀬というのどかな漁村です。私はいわゆる貧困世帯というやつで、先進国の環境下では、まあまあ苦労してきた自信はあります。通っていた中学の治安はお世辞にもよろしくなく、廊下を原付が走ったり、教室の窓が割れたり、友達が学校に来なくなったり。広島大学に進学した理由というのも正直、幸いなことにフェニックス奨学金と呼ばれる経済的支援があったからでした。(センター試験の成績が良ければ学費無料+給付奨学金という太っ腹制度)。徳島からスタンフォードに進学するような華々しい経歴は持ち合わせていませんが、大学進学によって自分の人生が変わる、と痛烈に感じました。そんな中で、教育を通じて経済成長するインドや社会階層を上昇させた中間層に、自らの過去と将来への期待を重ね合わせたかったんじゃないかなぁ、と思います。
学部3年の終わりに、様々な縁で日下部先生を紹介してもらいました。具体的には、イベントや友人の紹介で知り合った4-5名ほどの先輩に進路相談をしたところ、なんと全ての人が日下部先生につながりのある方だったんです。「これは何かの縁に違いない!」と思いながら、先輩数名と共に先生の研究室に訪問し、お茶を飲みながら談笑し、院進の相談をさせてもらいました。私は世間知らずのせいか、ピスタチオの食べ方が分からず殻ごとバリバリ食べていました。
【大学院での調査、フィールドワーク】
大学院進学当初は「インドにおける私立学校教育には、中間層内の文化的な格差を是正する機能があるのか、もしくは格差は固着するのか」という大きな問いから始まりました。ただ時間的な制約や限られたネットワークを鑑みて、修士課程の間で徐々に、「同じ経済的階層である中間層の、教育実践(教育方針や学校選択)にはどのような多層性(違い)があるか」という現実的な問いに着地しました。
▶コロナ禍での挫折
日下部ゼミではとにかく、現地でしか得られない一次情報を集めるフィールドワークが重視されています。先生からよく「魚を釣るのが調査で、釣った魚を調理するのが分析や執筆だ」と言葉を貰ったことを覚えています。僕も最終的には現地調査を実施できましたが、より多くの挫折についても言及しておきます。修士1年時には、G-ecbo(IDEC内の海外インターンシッププログラム)とILDPインターンシップ(広島大学内のインド交換留学制度)にチャレンジしました。前者はコロナ禍で中止、後者は選考に合格したものの、オンラインによる実施だということで、参加をやめました。修士2年ではインド政府が実施する留学制度(ICCR留学制度)に応募しましたが、インドらしく、返事は来ませんでした。どうしようと思いましたが、先生は「なんとかならないときもあるが、まあ、なんとかなるよ」と、いうような言葉をかけてくださいました。また、コロナで日本社会が総じて萎縮しているときも、先生はまったく萎縮せず、考えも行動も崩されませんでした。今考えると、コロナ禍は、コロナというウイルスではなく人間が創り出しているものだ、ということも完全に見切っておられたと思います。
▶︎IMAGINUSでのフィールドワーク
修士2年の4月ごろ、日下部先生が理事を務めているNGO、”IMAGINUS“が進めていたJICAのプロジェクトに携わることで、現地渡航ができることになりました。スタッフとしてプロジェクトにジョインしながら、別の時間に研究調査をさせてもらえる。まだ国際協力キャリアがペーペーの私に現地でのプロジェクト参加を許可して下さり、本当にありがたいことでした。先生の言う通り、「なんとかなった」のです。
プロジェクトでは、インドのシリグリという地域に滞在していました。シリグリはネパール・バングラデシュ・中国・ブータンに隣接し、地図上はくびれたような形になっている特徴的な地域です。貿易や交通の要所ですが、同時に他地域からの移民にとって、住むのに都合が良い場所でもあります。特に私たちのプロジェクトでは、主に他地域から移動してきた貧困層を対象に、教育支援事業を実施していました。
私の現地渡航時期と合わせ、日下部先生も研究調査のためインドに乗り込んでいました。先生の研究も同じく、シリグリのストリートチルドレンを対象としており、子どもや親、利害関係者へのインタビューを直に見ることができました。初対面の外国人に対し情報の開示を拒む状況をイメージしていましたが、先生のインタビューではインフォーマントから必要な情報がスルスルっと零れ落ちてくる、そんな感覚を抱きました。私の調査自体は中間層を対象とした内容ですが、貧困層との関わりが土台にあったおかげで、「どんな仕事をしているか?」「どんな消費をしているか?」「教育の重要度はいかほどか?」「教育に求めるものは何か?」といった要素に対する基準点、アンカーを捉えることができ、結果として中間層に対し奥行きのある理解を持てました。
▶︎インドでのフィールドワーク
プロジェクトの隙間時間では、自身の研究のタネを探しに街中を練り歩きました。中間層の知人がいないもので、スタバで見知らぬ店員や客への声かけもしました。元々私は、Delhi Public Schoolという特定のフランチャイズ私立学校のみを対象として設定していました。というのも、このブランドは国内だけで200以上の学校を展開する超有名校だからです。街中のいたる所で広告やスクールバス、制服、キャンパスを見かけるため、容易に調査できるだろうという算段でした。
しかし、インドにおける私立学校はまさにビジネス。Delhi Public Schoolのような大企業は情報の開示にとても厳しい。したがって、オフィシャルな形での調査はできませんでした。ただ、紹介によって同校の学生や保護者、教員へのインタビューや、インフォーマルな形での学校訪問は実施できました。人の縁の力強さをしみじみと実感した次第です。
インタビューを通じて、同じ中間層の中でも教育に対する捉え方が全然違うなあ〜という雑駁な印象を覚えました。例えば、学校選びにおいてどのようなポイントを重視するのか?(例:コスパや近さといった利便性、家族や友人あるいは地域の評判、授業の実施形態や使用言語または課外活動といったコンテンツ)、子どもの教育に対しどのような態度でいるのか?(例:教育のことがよく分からないのであまり関わろうとしない、子どもに選択してほしい分野や進んでほしい大学を進める、子どもが試験勉強をするよう発破をかける、子どもの自由な選択を尊重する、など)まるでファッションのブランドを選ぶかのように。
日本と異なり私立学校への通学が一般的なインドだからこそ、学校選択や教育方針といった場面で個々世帯による如実な差異が現れる様子が、とても面白く感じました。
▶︎日印学生交流事業、2度目のインド渡航
フィールドワークから帰国した8月、再びインドが到来(実際は僕が行ってるんですが)します。たまたまインド人留学生が紹介してくれた、大使館などが主催する日印人材交流プログラムに合格し、インド全国の若年層と交流できるチャンスを得られました。選りすぐりのインド人20名と、インドに関心がある20名の日本人との出会い。間違いなく自身の修論執筆にとって欠かせない経験でした。
https://www.hif.asia/report-2022-english
ウッタラーカンド州の農家から大学院に行くメンバーもいれば、幼少期をドバイで過ごしホグワーツのようなボーディングスクールに通ったメンバーもいました。歩んできた軌跡は全く異なるメンバーが、高等教育を受け同じフィールドで立っていることに、教育の可能性を感じました。一方で、ごくわずかな成功ケース以外を除けば、ほとんどが生まれながらの大いなる格差を乗り越えることは難しいのだ、という苦い現状も実感しました。
(下の写真は参加した日印交流プログラムの様子ですが、インド行きのJAL機内で映像が視聴できるそうです。ぜひ一度ご覧ください)
【魚を釣り、調理する】
先述したように、日下部先生からは「調査で魚を釣って、分析や執筆過程で釣った魚を調理するんだ」と例え話をもらっていましたが、どの過程もウンウン悶えながら試行錯誤したことを覚えています。
まず、十分な「魚」が得られずに調査と格闘しました。想定していた学校とコンタクトが取れず急遽別の対象を調査する必要に駆られたり、そもそもインタビューの絶対数が足りないためオンラインで追加調査を実施したり。次に、得た魚をどう調理するかで悩みました。データの分類がおざなりで、イマイチ面白くないなぁ、と納得いかないまま数日が経つ、といった次第でした。また、自分の頭では綺麗に理解できても、いざ自分の分析を他者に伝える場面(会話で伝えたり、文字に起こしたり、モデルを作ったり)で上手くいかないこともありました。
幸いにも、日下部先生は対話の時間を頻繁に設けてくれました。時には研究室で、時にはzoomで、時にはLINE通話で、幾度となく相談をさせてもらいました。さらに幸いなことに、共に格闘できるゼミのメンバーにも恵まれました。言葉にならない思考を何度も壁当てさせてもらい、質問を投げてもらい、互いに励ましあった研究室での生活。修論執筆に伴う苦労はありましたが、それでも研究室やIDECに来るのが嫌だと感じたことは一度もありませんでした。先生やゼミ生のおかげで、あれほど拙かったハズの研究に対し、最終修論発表の場面では不思議と誇りすら持てていました。振り返れば、先生との出会いから現地調査、論文の執筆まであらゆる場面が「縁」によって支えられていたなぁと痛感します。先生はよく、「懸命に調査をやっていると、なぜか重要なデータは向こうからやってくるんだよ」といっていましたが、果たしてその通りだったのです。
【卒業後】
2023年の4月からは、日本貿易振興機構(JETRO)というビジネスや企業の海外進出をサポートする機関に勤めています。特に私は、スタートアップの支援を行う部署に配属され、これからの日本経済を左右する渦潮の中に放り込まれています。新人として日々学ぶことばかりですが、日下部研究室で身に沁みた「魚を釣って調理する」ことと「縁」を軸に、誰よりも泥臭く足を動かすことを楽しめている自負があります。
最後にこれまた日下部先生の語録ですが、「ファミリーというのは離れてからが本当の始まりだ!」という言葉で締めさせていただきます。ぜひ皆さんも研究という門を叩いてみてください!